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ペルソナ5 / ペルソナ5Rにおける主体の変容 序論・第1章 ペルソナ・シリーズの理論的前提としてのユング心理学

ペルソナ5 ザ・ロイヤルをクリアしました。演出もカッコよく、とても面白かったです(感想文)。 プレイしていて思ったこと (大嘘) を書いていきます。 ペルソナ4 ザ・ゴールデンおよびペルソナ5 ザ・ロイヤルのネタバレを含みます。


 本稿では、『ペルソナ5』 (以下P5) およびその拡張版である『ペルソナ5 ザ・ロイヤル』 (以下P5R) を対象とし、同作における主体の在り方とその変容を、心理学および実存主義哲学の観点から分析することを目的とする。P5は一般に、腐敗した権威に抗う若者たちの反逆の物語、あるいは現代社会批判の寓話として理解されてきたが、同時にそれは、「世界は認知次第でいかようにも歪められうる」という不安を前提とした物語でもある。作中で描かれる世論操作や権威の成立は、認知が外部から規定されうることを示す一方で、物語の終盤においては、そのような認知の枠組み自体をどのように引き受け、選び直すかが主体の問題として浮上する。この両義性は、単なる反逆譚としての理解だけでは捉えきれない、本作の思想的緊張を形成している。

 このように、認知が外部から形成・操作されうるという世界観は、近代以降の思想において繰り返し論じられてきた。主体は自明な出発点としてではなく、言説や制度、規範的実践の中で構成されるものとして捉えられ、個人の自由や判断は常に相対化される。この視座に立つならば、P5において描かれる世論操作や権威の成立は、主体がいかにして社会的に構成されていくのかを示す一つの表象として理解することも可能である。しかし、このような分析は、主体が構成されているという事実を明らかにする一方で、「それでもなお主体はいかにして引き受けられうるのか」という問いには十分に答えない。本稿は、認知や主体が構築物であるという理解を前提としつつ、そこで議論を閉じるのではなく、その地点から主体の可能性をあらためて問い直す立場をとる。

 以上を踏まえるならば、P5において主体がどのように捉えられているのかを検討するためには、同作が依拠する心理学的前提を確認する必要がある。ペルソナ・シリーズは、その基本概念においてカール・グスタフユングの分析心理学に依拠している。ユングにおけるペルソナとは、自己の本質的解放を意味するものではなく、社会的関係の中で要請される役割、すなわち仮面である。P5においても、ペルソナの覚醒は単なる内面の解放ではなく、主体が社会的世界とどのように関係するかを再構成する契機として描かれている。ここでは、ユング心理学を価値判断の対象とするのではなく、シリーズ全体の理論的前提として位置づける。

 ペルソナという概念が示すように、P5における主体は、透明な内面としてではなく、社会的関係の中で既に構成されているものとして描かれている。しかし同時に、P5の物語は、そういった事実を指摘するだけで完結しているわけではない。むしろ物語の終盤においては、そのように構成されうる世界を前提とした上で、なおどの認知を引き受け、どの選択をなすのかが、主体自身の問題として描かれる。この点に着目すると、P5における主体の問題は、主体がいかに構成されるかという分析にとどまらず、相対化された世界の中でなお主体的な選択がいかに可能として描かれているのかを問うものとして位置づけられる。この主体的選択の構図は、ジャン=ポール・サルトル実存主義における選択と責任の概念を参照することで、より明確に捉えられる。

 一方で、P5R三学期においては、このような主体的選択の肯定がそのまま維持されるわけではない。そこでは、善意に基づく選択が、他者の苦痛や欲望をあらかじめ解消すべきものとして扱い、結果として他者が応答し、拒否する可能性そのものを閉ざしてしまう危険性が示される。P5Rは、自由な選択が他者との関係においてどのような限界に突き当たるのかを問題化しており、この点は、エマニュエル・レヴィナスの他者論およびリチャード・ローティによる公的倫理の議論を参照することで検討される。

 本稿は以上の検討を通じて、P5 / P5Rを単なる反逆の物語としてではなく、主体の成立からその倫理的限界、さらに他者への応答としての実存へと至る段階的変容の物語として位置づけることを目指す。

第1章 ペルソナ・シリーズの理論的前提としてのユング心理学

 ペルソナ・シリーズは、その名称および基本的な世界観において、カール・グスタフユングの分析心理学に依拠している。しかし、この理論的前提がどのように作品化されるかは、シリーズ各作において大きく異なる。特にペルソナ4(以下P4)とP5を比較すると、同じユング的枠組みを共有しながらも、主体の葛藤が個人的次元から社会的・政治的次元へと移行していることが分かる。

 P4において、シャドウは各キャラクターの前に直接的な人格として出現し、「お前は俺だ」という承認を迫る。ここでの葛藤は、主体が自己の内面にある否認したい側面とどう向き合うかという、比較的個人的・心理的な次元に焦点化されている。一方P5では、シャドウは「パレス」という空間的・社会的構造の中に組み込まれ、個人の歪んだ欲望が他者を支配する装置として外在化される。この変化は単なる演出の違いではなく、主体理解そのものの転換を示唆している。本章では、この転換を理解するための前提として、ユング心理学の基本概念を確認した上で、それがP4とP5においてどのように異なる形で表象されているかを検討する。

 ユングにおける「ペルソナ」とは、主体の内的本質そのものではなく、社会的関係の中で要請される役割や態度、すなわち対外的な仮面を指す概念である。それは主体が社会と関わるために不可欠な装置である一方で、自己の全体を代表するものではない。このペルソナの背後には、意識から排除された欲望や感情、価値観の集合としての「シャドウ」が位置づけられる。

 重要なのは、ユング心理学においてシャドウが単なる「本心」や「抑圧された欲望」と同一視されない点である。シャドウは、主体自身の欲求に由来する要素を含みつつも、他者からの期待や社会的規範、さらには周囲からの投影によって歪められた像として現れる。その意味で、シャドウは純粋に内的な存在ではなく、主体と社会との関係性の中で生成される構成物である。

 この理解は、ペルソナ・シリーズにおけるシャドウの描写においても一貫している。たとえばP4において、花村陽介のシャドウは「特別でありたい」という欲望を語るが、それは単に陽介自身の願望を表すだけでなく、田舎町の退屈さ、友人関係における自己の位置、家業に対する周囲の目といった社会的文脈の中で形成されたものとして描かれる。同様に、久慈川りせのシャドウは、アイドルという職業が要請する「商品化された自己」と、それに対する反発という、極めて社会的な葛藤を体現している。

 ユングはシャドウの形成に関わる補助概念として、アニマおよびアニムスを提示している。これらは「男性の内なる女性性」「女性の内なる男性性」として説明されることが多く、ユング自身もそうした生物学的性差と結びつけた論じ方をしている。この点で、アニマ / アニムス概念は性別二元論的であるとの批判を免れない。

 しかしながら、理論的に抽出可能な核心は、アニマ / アニムスが主体の内面化した他者像、すなわち自己とは異なる価値や視点の象徴として機能している点である。問題は、この「異なる価値」がユングにおいて性差と安易に結びつけられたことにある。

 P4は、この理論的問題性を含めて可視化している作品として理解できる。たとえば白鐘直斗のエピソードでは、「男性的」とされる探偵という職業への憧れと、生物学的な性別との葛藤が直接的に描かれる。ここでは、アニムス的緊張が性別役割意識と不可分に絡み合っており、ユング理論が前提とする性差の本質化が、むしろ批判的に検討される契機となっている。同様に、巽完二のエピソードも、「男らしさ」という社会的期待と個人の趣味・感性との齟齬を主題化しており、性別役割そのものが主体を縛る装置として描かれる。

 この点を踏まえるなら、P4におけるアニマ / アニムス的表象は、ユング理論の無批判な再現ではなく、その理論が内包する性差本質主義の問題を含めて物語化した結果として読むべきである。

 ユングは、主体の内的ズレが固定化される過程を説明するために「コンプレックス」という概念を導入している。コンプレックスとは、特定の経験や感情が強い情動価を伴って結びつき、主体の意識的統制から部分的に逸脱した心理的構造を指す。コンプレックスは一貫した人格として現れるのではなく、状況に応じて反復的・断片的に作動する点に特徴がある。ここで重要なのは、フロイト的な抑圧モデルにおいて無意識が主として過去の欲望の残滓として理解されるのに対し、ユングにおいては、無意識が現在進行形の社会的関係の中で形成・変形される構造として捉えられている点である。

 この理解に立つならば、シャドウは主体の「真の自己」を一度暴露すれば解消されるものではなく、社会的関係の変化に応じて繰り返し姿を変えて現れる存在として捉えられる。P4の物語構造は、一見すると「シャドウ (影) との対峙→受容→ペルソナ覚醒」という一回的な解決を提示しているように見えるが、各キャラクターのコミュイベント (社会的紐帯イベント) においては、同様の葛藤が形を変えて繰り返し浮上する。これは、シャドウの受容が終着点ではなく、むしろ継続的な自己との対話の出発点であることを示唆している。

 以上のようなユング心理学的枠組みは、P4において主として個人の内面的葛藤として表象されていた。シャドウは主体の前に立ち現れ、対話を迫り、承認を求める。物語の焦点は、主体が自己の分裂をどう引き受けるかという心理的次元にあった。

 これに対してP5では、同じユング的前提が大きく異なる形で展開される。P5におけるシャドウは、「パレス」という歪んだ認知空間の支配者として描かれ、その歪みは他者を従属させ、搾取する社会的権力として機能する。鴨志田のパレスは学校を「城」として認知し、生徒たちを奴隷とみなす。斑目のパレスは弟子たちを「展示物」として扱う。ここでシャドウは、もはや主体の内面に潜む否認された自己ではなく、権力関係そのものを空間化したものとして外在化されている。

 この変化は、ユング心理学の射程を個人心理から社会構造へと拡張したものとして理解できる。P5において問われているのは、「自己をどう受け入れるか」ではなく、「歪んだ認知がいかにして他者を支配する装置となるか」である。シャドウは、主体の内的分裂を示すと同時に、その分裂が社会的権力として作動する様態を可視化する装置となっている。

 ユング心理学において主体は、自己完結的な内面としてではなく、社会的関係の中で分裂やズレを抱えた存在として捉えられている。この理解は、主体がどのように形成されるかを説明する一方で、主体がいかなる意味で自らの行為や判断を引き受けうるのかという問題には十分に答えない。

 P4は、この問いを「自己受容」という心理的解決の形で暫定的に処理していたが、P5はそれを社会的・政治的次元へと押し広げる。P5において主体は、認知が外部から操作されうる世界の中で、なおどのような選択を引き受けられるのかという問題に直面する。この問いは、もはやユング心理学の枠内では解答できない。ペルソナ・シリーズは、この未決性を理論的前提として物語を構築しており、次章以降で扱うP5における認知、権力、主体的選択の問題系は、この前提から必然的に導かれている。

続きます。